18日に広島県のレストランでシェフをやっているイトコの達夫の突然の訃報を聞き
嵐のような数日間になりました
警察からの遺体引き取り要請の電話から始まりました
一人暮らしで亡くなった状態で発見されたものですから
遺体も検死されたようです
事件性はなく病死ということでした
達夫とは、ここ数年は年賀状と、年1回くらいの電話だけで
年賀状も一方通行で、返事などありません
急なことで、パニックになって
《なにをどうすればいいの 》
《お金は、どのくらい要るのか 》
《お葬式はどうするの 》
丸亀に住む母に、おろおろと連絡したら、母は豪傑ですから
《私は年だし、行くのは無理だからよろしくたのむ、お金のことは心配しないよう 》
と、言ってくれました
達夫の友人という人からも連絡があって
駅まで迎えに来て、お世話してくださるとのことでした
19日早朝ののぞみに乗って、福山に向かいました
車中、達夫のことをいろいろ思い出したり、今後の成り行きを思いやったり・・
小さいころは姉弟のように育ちましたから、いっぱいの思い出があります
達夫は料理の道だけはずっと一筋でしたが
その他のことは、まったくいいかげんに見えました
家庭も持たず、家も持たず、預貯金などお金にも縁がなかったと思います
ネクタイ姿なんかみたこともありません
音楽が好きで音楽家の卵にご飯を食べさせたり、黒×××とかいう劇団を応援していたり
私からみると
《いい年して、何を考えてるの

》と、心配でした
寅さんの映画を観ると、達夫の顔が浮かんで見えました
福山駅に着いたら、達夫の友人が迎えてくれて
それからは、たくさんのお友だちのかたが、すべてやってくれました
警察の担当者のかた、葬儀社の人も達夫の料理を食べたことがあるのだそうです。
私は達夫の死を知ったとき
悲しむ前にお金や、葬式の手順などの心配をしました
薄情なものです
身内で出席したのは叔父夫婦と私の3人でした
達夫は独身でもあり、きっと寂しいお葬式になると思っていましたが
案に相違し、たくさんののお友だちが
お通夜、お葬式、骨上げまで集まってくれました
何十人もの人が涙流してくれています
達夫はお世辞にもイケメンではありませんし、もてる要素は皆無と思っています
ところが、若い女性が、たくさん泣いてくれています
もちろん、浮いた話じゃないことはわかっていますが
それでも、すごくうれしく思いました
《どうして、達夫のために泣いてくださるの?》と聞きました
《吉田シェフ

の料理はすばらしい 》
《なんだか、暖かいのです

》
《話しをじっと聞いてくれました

》
などなど、私にはびっくりすることばかりです
お香典もたくさんいただき、費用の心配もありませでした、
達夫の住まいや、もろもろの整理もお友だちに引き受けていただきました
確かに形になったものは何も残していないでしょうが
今、私は達夫を見直しています
私の知らない、暖かな居場所を持っていたのですね。
独り身ではあっても案外幸福な人生だったかもしれないと思いました
私の祖父母、父、達夫の母の入っている墓のある丸亀に
達夫のお骨を持って帰りました
吉田瞬間堂フレンチ∞料理図鑑に
達夫の作った料理が少し載っております
見ていただけると、うれしいです